ちょっとコラム「言葉狩り」とか

こんにちは。
今日はちょっと、エゴの生態探求から少しそれます。
エゴが善悪を判断すると、マスコミが暴走したり、最終的には「言葉狩り」のようなことが起きてしまっちゃうよ~って話です。

そして暗黙の了解的に、みんなが自分の首を絞め、自由が無くなっていくんです。
自由って本当に大切ですから、少し冷静になって考えてみたいですね。
 

・エゴに溺れたままだと・・・。
・エゴに溺れたまま集団になると・・・。
・レッテル貼りの矛先が変わると・・・。

エゴに溺れたままだと・・・。

前回の、エゴの生態② 良い悪い・善悪などのレッテルを貼るでは、エゴの主観や偏見で世のなかを見るので、あなたはその価値観に溺れてしまうかもしれないことをお伝えしました。

エゴは、物や人、怒ったことなどに勝手に価値をつけて、すぐに良いだの悪いだのいうんです。
だいたい人は、子どものころはエゴに溺れて生きていますから、欲望丸出しですね。
そして大人になるにつれて、人生の法則みたいなものを勉強していって、自慢しなくなったり、人に優しくできるようになっていきます。

でもそれができるようにならない人もたくさんいます。
子どもの精神のまま大人になったような人、あなたの身近にもいると思います。

この現象は、実はエゴに翻弄されるまま生きていくと起こります。
大人になっても「認められたい」「自分ってすごい」から抜けられないんです。

あなたの身近な、子どものままの人、周りからはどんな扱いを受けていますか?

恐らく、
「腫れ物を触るような」とか、
「同情せざるを得ない」とか、
「従わざるを得ない」ような感じになっていないですか?

「やたら被害妄想で、何を言ってもマイナスに取られてしまって何も言えない」だとか、
「同情を引いたり、ひどいことを言って気を引こうとする、かまってちゃん」だとか、
「やたら威張ったり、正論を堂々と言って勝ち誇るので、従うしかない」って人達です。

そういう人たちは、たいてい本当の友達は作れないか、同じような人たちで集まっているんじゃないかと思います。
これも「引き寄せの法則」ですね。
(こんなところで「引き寄せ」が出てくるんです。)

(こんな記事も書いています。引き寄せ難民の皆様へ

エゴに溺れたまま集団になると・・・。

エゴに溺れたままの人たちが集団になると、とても大きい力を持ってしまいます。
エゴが勝手に善悪を判断して、それが集団になってしまうわけです。
とくにマスコミは、それをテレビなどで放送できますから、一般の人のエゴも刺激しまくりです。

小さいエゴたちが集って、お互いが刺激し合い、相乗効果となって、大きくなります。
小さな風が集まって、大きい台風になるように。

集団になったエゴは、自分が正しいと決めつけていますから、大きい台風となって君臨します。
有名人の不倫報道などは複雑ですし、異様です。

エゴは、
「他人の不倫を見たい。」
「他人の不幸を見たい。」
「他人のプライバシーが見たい。」

という好奇心を満足させたいです。

でもそれだけでは欲丸出しですから、いくらアホなエゴでもカッコ悪いって気づきます。
エゴは「罪悪感」も大好きですし。
そしてエゴは、「倫理」を持ち出して、表面を飾ります。

「倫理」という名のもとに、一般視聴者のエゴを先導します。
マスコミと視聴者が一体となって、エゴを増長させます。
そして、有名人の不倫をあばいて叩いて、芸能界から追放してしまいます。

でも、悪人を裁くのは司法です。
不倫なら、夫(妻)不倫された方から訴え出て、示談や民事訴訟で慰謝料などを払ったりして終わることです。
仕事を奪うまでの権利はありません。

芸能人なら、不倫がバレて、ファンが少なくなって仕事が少なくなるなんてことはあるでしょう。
また、不倫された夫(妻)が訴訟を起こしたとか、今示談が進んでいるようなことは、報道ですからすればいいですが、
「倫理の台風」で仕事を奪うことは、見当違いです。

報道に善悪の決めつけがプラスされて暴走してしまうと、手がつけられなくなってしまうんです。
エゴの暴走は誰にも食い止められません。

レッテル貼りの矛先が変わると・・・。

ちょっと視点を変えてみます。
今度はエゴのレッテル貼りが暴走したときを考えてみます。

このこともエゴの生態② 良い悪い・善悪などのレッテルを貼るでお話ししましたが、エゴは常々、いろいろなものに価値や善悪を判断して、決めつけてレッテル貼りをします。

「この部下は指示待ちだから無能だ。」とか、
「あなたの子はうちの子と違って、よく勉強できるから良い子ね。」とか、
「このたわしは色が変わっているから既製品より良い。」などと、
どんなものにでもレッテル貼りをします。

でも本当は、どんなものも「存在しているだけ」で、価値をつけているのはいつもエゴのしわざです。
上の「この部下」はとても心優しく雰囲気作りが上手ですし、「うちの子」は空間のデザインがとても上手ですし、「このたわし」はあまり汚れが落ちないので全然使えないんですが、エゴは自分のせまい偏見だけで判断してしまいます。

でも何度も言いますが、どんなものも「存在しているだけ」で、エゴが勝手に都合のいいように解釈しているだけです。
なのでどんなものにも、良いも悪いもないですし、価値の概念なんてエゴが作り出したものですし、善も悪も何もエゴの勝手な意味づけです。
(なので、あなたが生きる価値がないとか言って悩んでいたとしたら、それは全くナンセンスなんです。あなたは「存在しているだけ」ですから。)

こうやって、エゴはその物事の一面だけを見て、都合の良いように解釈してしまいます。
この矛先が「言葉」に向いた場合。
その言葉自体が悪いものののようにとらえてレッテル貼りをしてしまいます。

例えば「子供」を「子ども」としたり、「看護婦」を「看護師」としたりといった一連の動きです。
こんなことを書くと批判を受けるかもしれませんが、言葉自体に思いはありません。
もし差別の意味を含んだ「子供」という言い方をする人がいたら、その人の精神が差別的なだけであって、言葉を規制してもその人の差別的な精神が変わるわけではありません。

言葉は、そもそもその物事などを表わす共通理解です。
いわば「名前」です。
「存在しているだけ」のものに、「名前」をつけているだけなんです。
「名前」に良いも悪いもないのに、その差別的な人を糾弾するのではなく、「名前」を殺してしまうという、カン違いをしてしまっているんです。

ちなみに、誰かにバカにされて傷ついても、傷ついたほうの選択でもお話ししていますが、差別されたって傷つくことはありません。
あなたは「存在しているだけ」ですから、良いも悪いもないんです。
差別する意味を含んで何かを言われたとしても、その時点では、差別した側のクソな精神性が証明されただけで、差別された方は何も悪くありません。
堂々としていればいいです。
傷つくのを選択しても自分をいじめるだけになりますから、知らないふりして逃げたり、距離を置いたりして、放っておきましょう。

今回も長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、またエゴの生態探求に戻りたいと思います。

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